mimiheartstepのブログ

知花敏彦先生の講和(CD・DVD)でこの世の真実を知ることができた。欠点だらけだった私が少しづつ変われていく。今、悩み苦しんでおられる方へ伝えられたら・・・

困難を乗り越えてこそ霊的成長がある

  誰もがこの3次元という世界、物質世界、目で見える世界つまり重い鎧のような肉体を背負って生きている世界からその鎧を脱げば必ず霊界へ戻ります。そして誰もが何回も死(肉体を脱ぐ)を経験しているのですが、記憶がないので、死んだらどこへ行くのかわからない。だから不安で一杯なのです。
  前世、前前世・・・を指導霊から聞く事ができて、知花先生が言われていたように、何千回、何万回と悟れるまで私達は生まれ変わるという事が理解できました。
  そして、講和の中で時には涙を流しながら知花先生は、
 “あなた方が真理を受け入れられないが為に真我に目覚める事ができずまた何千回、何万回と生まれ変わり苦しむ姿がかわいそうでかわいそうで・・・この世は実相世界ではありません。目に見えない物が真実=実在なのですよ!あなた方は真実でない物を真実と捉え悩み苦しみを自ら造りだしているのですよ!”
 と必死に魂から訴え叫び、私達に理解してほしい気持ちがわかりました。


 前世で私は主人と駆け落ちをしてまでも一緒になりたいと思い手を取り合い反対していた父親から逃れ一緒になった(困難の始まり)けれど、私はわがままだったので、
主人がいるだけで幸せと感謝すればよかったのに、感謝できず、物(新しいドレスやアクセサリーが買えず)やお金(その日のパンを買うお金さえなく)、それまでの自分の身分や暮らしに執着し、
 “あの頃(結婚前)はよかった。新しいドレスやアクセサリー、オシャレを楽しんだりしていた贅沢な暮らしが懐かしいわ・・・何で私はあなたと駆け落ちをしたんだろう。こんな貧しい暮らしもうまっぴら!” 
 と愚痴る毎日。見知らぬ土地でよそ者扱いをされながら主人は一から農地を開拓し毎日毎日朝早くから晩遅くまで身を粉にして働いていたのに・・・私と一緒に力を合わせてすればよかったのですが、この時の私はお嬢様育ちだったので“労働”というものが出来るはずもなく、周りが何でもしてくれるような環境で育ったので、誰かの為に何かをするという事など到底できず、愛して結婚したはずの主人さえ支えよう助けようという気持ちもなく・・・この生では私は全く成長できなかったのです。それから何回の生を過ごしたのでしょう・・・


 やっと再び主人と出会えることができたのに、姉弟という皮肉な関係でした。
以前夫婦として生きたけれど、あんなに愛して結婚した主人を大切にする事ができず、私は自我人間丸出しで、自分の事ばかりを考え隣人である主人と助け合い、支え合い、励まし合い、慈しみ合う事ができなかったからなのでしょう。
弟(主人)が他の人と結婚した事で、落胆し絶望し、疲弊し・・・その時の私は可愛い愛する弟を取られたという所有欲や嫉妬心、ままならない現状に失望するなどネガティブな感情を引きずりながら一生を終えたのです。
それからまた何回の生を繰り返したでしょう。それでも少しづつは成長したのかもしれません。
 
 そして今世・・・主人とのやり直し人生。
今世生まれてきた家もサラリーマン家庭に比べれば少し裕福でした。(前世と似ている)
主人と結婚はできましたが、やはり経済的に大変な時期が何度もやってきました。
でも、今世では何とかやり繰り(銀行で借りる事ができたり内職をしたり)ができるようになっていました。また、貧乏を楽しむ事ができるようになっていました。どうやって節約しようかと工夫する事を楽しむようになりました。経済的に大変でもかけがえのない家族と一緒なら苦にならなくなっていました。
洋服やアクセサリー、バッグ、オシャレ、家や車や家具など物質に気を囚われた時期もありましたが、田舎暮らしを経験する事によって物質への執着も無くすことができるようになりました。


 前世までの繰り返し(復習)のような場面が次々と現れるように、家族で見知らぬ土地で農業を始め、今世ではケンカをしながらでも2人で力を合わせてやり遂げる事ができました。今世では、今度こそ握ったその手を離しそうになった時もありましたが、離さないという想いが強くなったようです。
 そして、私の霊的な成長を促してくれる苦しみの中へ導いてくれたのです。この苦しみがなかったら、私は今でも、人を見れば自分の価値観で “あの人はこうだ、ああだ。”と批判し裁くばかり。分離感一杯持つ小さな自我人間のまま。
知花先生曰く
 “あなた方は誰も裁いてはいけませんよ。裁くものは必ず裁かれる。”と。
“イエスの言葉”という本の中にも、
 “他人を決めつけるな よくもまあ、いつまでも自分の判断がおおむね正しいと考えていられることだろうか。その自分の判断で他人の事をあれやこれやと評価しているけれども、そんなことはそろそろやめてしまおうじゃないか!自分は他人について価値判断をしているけれども、向こうだってきみについていろいろと価値判断を下している事に気づかないのか?しかも、滑稽な事に同じ物差しでだ。そこから、疑いと不快さ以外にいったい何の実りが得られるというのか。”
 また、困難から背を向ける事に対して、

 “堕落してだめになっていくのは、想像するよりもずっと簡単な事だ。本人はこの程度ならまだいいだろうと思っているのだが、その時にはすでに暗黒の坂道をずっと下っているのだ。みんなが歩いている広い道をたどると、いずれそうなる。なぜならば、その道こそ、誰の目にも安易に見え、行くほどにどんどん増えて来るからだ。そうしてみんなで押し合いへし合いして、はじのほうからあぶれて両脇の無限の坂道へと滑っているのだ。” つまり、
 “困難な道を選べ。らくに見える方を選ぶな。狭い道を行け。あまりに孤独で泣けてきても、急峻な峰を目指せ。暗くて、細くて、寒くて、辛すぎる道を行け。” と言われています。
 ほとんどの人は嫌な事を避け、苦しい事から逃げ、不安から逃れるために平坦で広い安全な道を進もうとします。確かに平安が得られるかもしれません。でもその平安は一時でしかないのです。
 人生は苦しんでこそ霊的に成長できるのです。
苦しみから逃げてはいけないのです。苦しんだ先に必ず喜びが待っています。幸せが待っています。その苦しみも自分がこの世に生まれて来る時に指導霊と相談して乗り越えようと決めて予め設定してくるのだそうです。
 “この世に偶然はありません。すべて必然です。” と知花先生は言われているのもそういう事からなのです。
 私達は自分である程度設定(その中には必ず困難がある)した自らの宿題(カルマ)を乗り越えて人生を生き抜かなければならないのです。
その事にお一人でも気づいて、これからの人生を実り多いものにしていただきたいと切に願います。